コンフー積もうよ - Cause breakthrough! -

もはや質にも量にも意味はない。

【個人用】アメリカ史を学ぶ上での大雑把な見取り図

さて。昨日の反省踏まえて計画立てるか。

なぜアメリカ史を勉強するか。
まず、やりたいこと。
①ビルクリントンの凄さを実感するために、彼に至るまでの歴史的背景を学ぶ。そんで、『マイライフ』を読んで「デーモニッシュ」という表現、あるいは彼の人間観に触れ、彼の人間的魅力にメロメロになる(笑)→きっかけは『シャイニング』*1
ジャズエイジについて学び、その空気感を知る。そんで、TRPGのシナリオに活かせるようにする。
③冷戦の空気感を知ると同時に、政治的意図?、、、つまり、ソ連とアメリカそれぞれの国家をひとつの意志を持った個体と仮定して、その目的を理解する。
で、ネットの中の島々の凄さを実感する。いや、逆か。ネットの中の島々の凄さを実感するために、冷戦を学ぶ。だから、できればサイバーパンクのSF史的な、内在論理というか、思想?的な流れを把握するのも大切、、、な感じする。
④あと、大戦終了後、GHQが日本に施した政策が、アメリカ(あるいは大戦で勝利した国か?)にとってどのようなメリットがあったかを理解する。つまり、建前としての倫理的なものではなくて、本音としての政治的メリット、とでもいうか。まあ、ここらへんは、アメリカ史を学びながら、もう少し問いを具体的にしていこうかな。うん。

⑤異文化理解を深めることで、ハリウッド映画を超愉しむ*2。下心丸出しだけど、ここらへんをペトロニウスさんと議論できるレベルまで、理解を深めたい。*3

⑥その経験を活かし、次は他の国、できれば中国あたりの国家史を学び、そこで生産される物語を深く味わえるようにしたい
上記六つのやりたいこと、とは少しズレる感じするけど、、、映画で、アメリカ史の、マクロに翻弄される個人の穴埋めをする。。。たとえば、ベトナム戦争関連で、『ランボー』があるけども(知ってはいるけど、実際にまだ観たわけじゃあない。。。そういえば、『戦闘城塞マスラヲ』の中で、『ランボー』に感動するシーンあったよなあ…)、そういった社会や世界に翻弄されつつも、それに抗おうと意志する漢ってなんかカッコいい気がする。まあ、そういった魂の闘争、的な、精神論めいたものじゃなくても、それこそ伊藤計劃的な逆セカイ系な、ソーシャルレベルからデザインされた個人の内面、みたいなものって、なんか気になるんだよなー。バラード的な感じというか。
とすると、、、バラードもテクノロジー三部作は読んでおきたいし、劇場版パトレイバー1,2も観ておきたい。。。うわあ、やっこと多いなw
まあ、いいか、全部を一気にやろうとするんじゃなくて、日々、少しずつ。ちょうど今読んでる『「思考軸」をつくれ』の中で、シャネルが「毎日世界はシンプルになっていく」というようなことを言っている、と出口さんが引用していたけども、毎日何かしらこなしていけば、タスクというのはいつかなくなる。目の前の膨大なタスク量に圧倒されるんじゃなくて、長期を見据えて今やれることに集中する!そうすれば、いつか振り返ったとき、自分でもびっくりするくらいの景色が広がっているはずだから、、、

 

③に関してで、1)下巻の訳者あとがきを読んでみて、『ネットの中の島々』がマクロ的に優れている部分のヒントを掴み、わからない語句などを並行して調べたりする。
2)

著者インタビュー:伊藤計劃先生
伊藤「<…>
ゲームデザイナーの小島秀夫さんの作品には大きな影響を受けました。特に「スナッチャー」というゲームを中学生のときにPC-88で体験したのは大きかったと思います。
<…>
テクノロジーと社会の相互関係というものがあるんだ、ということを中学生の自分に教えてくれたのが「スナッチャー」です。
 そういう視点を得てから、スターリンにハマっていきました。テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さスターリングは教えてくれました。「ネットの中の島々」にはとりわけインパクトを受けたと思います。「スキズ~」でも「巣」でもなく。いわゆるレッテルとしてのサイバーパンク的な「頽廃した近未来」でなく、我々の社会と極端に異なる遠未来でもなく、今のわれわれとあまり変わらない「ちょっとだけ未来」を描いていて、それがすごく新鮮でした。「虐殺~」は基本的にその「ちょっとだけ未来」の手法で描かれています。たとえば、脳で直接ジャックインするような技術は実際に開発されてはいるのですが、先行するサイバーパンクの作品群や「攻殻機動隊」のイメージによって、未来未来したものと見られてしまう可能性が高い。かつてのサイバーパンクで描かれたテクノロジーの幾つかはもはや、ロボット工学にとっての鉄腕アトムガンダム、アメリカでいうと「スタートレック」のような、科学者や技術者の幼心にトラウマを与えた(笑)、それを目指して現実に後追いされる類いのフィクション、こういってよければR&Dの神話的存在になってしまっていると思うんです。そうした神話的、イコン的未来性は注意深く排除しました。スターリングの「ネットの中の島々」も、当時にあってはそうした絶妙なポジションを描き出すことができた作品だったのだと思います。
 そういう意味で、スターリングは私にとって最も──ギブスンよりも──重要な作家です。私のールタイム・ベストは『ディファレンス・エンジン

オです。」

雀部「『ネットの中の島々』が近未来とすれば、『ディファレンス・エンジン』は近過去ですから、そういう意味では一貫してますねえ。<…>」

 我ながら強調しすぎだな(苦笑)

 

まず前提として、テクノロジーと社会の相互関係という視点について。

「テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さ」を愉しめるようになりたい。これって、後者は『civ』的な、文明史のダイナミクスのようなものだと思う。で、前者もまた重要で、それはミクロとマクロの連関だからこそ、愉しめるものだと思うんだよね。ペトロニウスさんが絶賛するような、マクロの中に自分を位置づけて、使命感に燃える、ビルドゥングスロマン的な熱さともまた違う、マクロと個の愉しみ方だと解釈している。計劃さんのが冷たい、キューブリックなものだとしたら、ペトロニウスさんのはスティーヴンキング的な温かさとも言うべきか。。。なんか違うかな?すげえ大雑把だけど、批評とドラマの違いのようなものかもしれない。まあ、ようは、視点を切り替えて愉しむ、という意識が大切ってことだな、うん。(←ひでえまとめ方w

で、そのテクノロジーと社会の相互関係、という視点を理解する鍵について。

神話的、イコン的未来性ではなく、、、つまりいわゆるガジェットSF的な、装飾的な、表面的なSFではなくて、、、ちょっとだけ未来を描いているからこそ、本質としてのSFを描いているもの、、、おそらくだけど、

KOJIMA PRODUCTIONS - HIDEOBLOG

の中で、計劃さんが小島監督を絶賛しているんだけど、この「エクストラポレーション」というのが鍵になると思う。*4

コピペできないから、引用しないけど、リンク先で計劃さんは、緻密な、膨大な設定で形成された世界観、、、いわゆる設定厨が喜びそうな作品を二つに分けている、と僕は解釈している。「『単なる設定』とエクストラポレーションは全く異なる」というものだ。後者のような作品を生み出すクリエイターが提示するある種のヴィジョンというものは、「『表層をひんむけば、本質はこうだ』という『思いもしなかった観点の提示』となると、豊かな知識と『考えることの楽しみ』を持ち合わせていなければ生み出せない」。なんかズレたな。。。

えっと、要するに、枝葉末節でしかない設定群から成る世界観作品よりも、各設定が本質に、有機的に結びついていて、しかもそれがありきたりなことを言ってるのではなくて、世界認識がガラリと変わるような作品の方が楽しいよね!、しかもそれが細部に至るまで神経の行き届いているような作品が、ようは小島監督の作品だ、と彼は言ってると思うのね。

で、このエクストラポレーションの行き届いた作品というのを、物語三昧の文脈に置き換えるなら、型月の設定のことだと思うんだ。

『空の境界 the Garden of sinners』 上巻 世界のつながり | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

 

 

①世界観の論理性

 

難しくいっているが、ようは、小さなガジェットの存在理由が非常に論理的で、深くまで考えられていることです。いろいろな超能力モノのマンガや小説を読んでいると、その背景の世界観存在がちゃんと論理的整合性を持っているものは少ない。えっと、それは例えばどういうことかというと、ル・グィンの『闇の左手』のように異なる世界を構築する時に、どこまで深くその世界を「ゼロから創りあげるか」という点です。

 

『闇の左手』は、ジェンダーや性別の問題や、惑星の生態系や気候、暦などその世界観を成り立たせる基盤を一から創造しています。それがテーマの本質にかかわるからですね。

 

しかも、奈須きのこが提示するヴィジョンというものは、伊藤計劃的読みの小島監督作品的な、世界認識がガラリと変わるようなセンスオブワンダーめいたものがある、というようなことを、ペトロニウスさんが仰られているのが、以下の文章を読めばわかってもらえると思う。

 

『Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

■物語で本当に言いたいこと~正義の味方は歪んだ欲望なのだ

 

この物語は、まったく同じ設定での三部作のようもので、1)セイバールート、2)凛ルート、3)桜ルートの三つで構成されていますが、それぞれに独立した物語と捉えることが可能でありつつ、世界観や設定が同一のモノをつくられて、この物語世界の本当の姿は、この3つ全てを見ないと理解できないようになっています。

その3つを俯瞰してみると、基本的にこの物語の全ての核心は、衛宮士郎という人間の救済(=サルベーション)を軸に描いています。いったいなにをどうやったら、士郎にとって救済が訪れるのか?。あんな風に悲惨な体験をしてしまった子供が、いったいどうすれば、救われたと思える日が来るのだろうか?、それがこの物語のキーの疑問提示です。そして、士郎という人格そして彼の持つ人格のドラマトゥルギーを読み解くときに、そこに不死性に関する議論が、深くセットされています。ちなみに、この

 

不死性

 

聖杯

 

正義の味方

 

という概念は、作品世界では、等価として考えられています。良い作品の基本なんですが、「常識で表層で理解されていること」を飛び越えるような概念の提示があって、それが体感できなければ、本当は物語の真の意図を理解したことにならないと思います。とりわけ、「正義の味方」という「善のモノ」「プラスもの」「望むことが個人として決して間違っていもの」を、鮮やかに「醜い間違ったもの」として転換していく様は、見事。

 

これに加えて、社会のダイナミクス*5に関しては、

『魔法科高校の劣等生』 佐島勤 著 魔法師と非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題 - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

 

SFの大きな命題の一つとして、新人類と旧人類の葛藤・戦いというものがあります。古くは『幼年期の終わり』からガンダムSEEDのコーディネーターとの対立とか、、、、、『新世界より』では、超能力を発揮できた人類とそうでない人類の殺し合いがあり、長い歴史の果てに、人類滅びちゃったりしていますよね。ミュータントものでは『地球へ』や『超人ロック』など、さまざまなものがありますが、これは、もちろんマイノリティの意識や視点のドラマにもなるんですが、もっと大きな枠では、新旧人類の、お互いの居場所をどう確保するかの椅子取りゲームの戦いを、どう描くのか、という話になるんですよね。

 

そう考えると、魔法師と非魔法師の互いの居場所を求める戦いは、優越的なマイノリティである新人類が、世界にどう居場所を求めるのか?。旧人類はそれを受け入れることができるのか、という話なんですよね。この劣等生の世界も、大きな戦争があって、魔法師たちはモルモットとして実験対象として様々な地獄と苦難を経て、現在の世界のルールと体制があるんですよね。しかし、いつその均衡が崩れて、世界が狂うかは、わからない。実際に共生して暮らしているが、そもそも「同じ人類じゃない」くらい能力に差があるわけで、それを、才能の差といってしまうには、結構無理があると思います。この辺はホモサピエンスとネアンデルタール人のようなサピエンス以外の人類との争いの歴史を見ると、それがいかにすごいことなのか、、、、絶滅するまで行きつくところまで行く話なのか、と心底寒くなります。

 

でも、それでも同じ人類であるには、確かに違いなくて・・・というところで、その差別の危険性をなくすために、人権などというフィクションにまったく訴えないし、露ほど意識も払わない達也のようなリアリズムは、とても現代的だし、モルモットとしてもてあそばれた実験動物の末裔で、様々な既得権益を獲得するために巨大な戦争を経ている未来の世界だけあると思います。そこで魔法師が、現代社会を成り立たせるエネルギーの重要なパーツになって、その存在を排除できなくさせてしまおう、そのエネルギーを提供する過程で、魔法師の社会における居場所を押さえてしまおという達也の発想は、とてもSF的というか、テクノクラートというか科学者の発想だと思うんです。

 

僕は、この現代の世界とほとんど違わない倫理や常識の中で生きている近未来設定の、この作品が、どこに着地していくかは、いつもわくわくしてみています。ここまで、新旧人類の相克を、リアルタイムで、コツコツ描く作品ってみなかった気がするんですよね。新世界より』のように、新人類と旧人類の争いがかなりのところまで行きついて、世界のルールが変わってしまった「後の世界」からスタートする、そして過去に何があったのかを暴いていくというのがこの系統の定番なんですよね。もちろん、劣等生もそうなんですが、この世界はまだ過渡期ともいえる世界で、まだまだカタストロフまではいっていない。しかも現代の地政学的な状況とほぼ同じような外部環境なので、この舞台で、どういう結論を出すのかは、見ものだなーと日々思っています。

 ※太字、管理人

 

こちらに関しては、補足が必要かもしれない。

まず、『魔法科高校の劣等生』は、この種の物語類型で定番の描き方はしておらず、新旧人類の相克をリアルタイムにコツコツ描いているタイプの作品だ、とペトロニウスさんが指摘しているのは、上を見ればわかると思います。*6

 

で、ここからは僕の解釈になるけども、このリアルタイムにコツコツ描くタイプの作品では何が凄いかっていうと、登場人物の視点から、その激動の歴史特有のダイナミズムを感じ取れることだと思うのね。*7

 

たとえば、さすおにだと、一年生の時に、世界初の「汎用的飛行魔法の実現」が、これ以上ないってくらいの演出でなされました。フェアリー深雪ちゃんのことね。あれはずるい。アニメで興奮したもん。

 

で、お兄様は、ただ俺TUEEE的な爽快感のために描かれているんじゃなくて、ある目的のために、副次的にこれを解決しただけなんですよね。

で、その目的、ていうのが、魔法師を武力として物格化されている現状を打破すべく――つまり、魔法師の人権を得るべく、世界を改革するために、イノベーションを起こし、計画し、長期的な視点でひとつひとつ問題をクリアしているわけです。

 

その志の高さ、地に足ついた行動…惚れ惚れします。

 

で、そのお兄様が為そうとしている、世界の革命。その瞬間を目の当たりにできることって、その時代に生まれた人間だけが持つ特権だと思うんですよ。もちろん、そのさらに未来で、歴史に名を刻まれた偉人として、お兄様が出てくると思うんですけど、同時代でそれを体感できることの悦びは分からないわけじゃないですか。

 

だからこそ、新旧人類の相克をリアルタイムにコツコツ描いているタイプの作品って、そのダイナミズムを体感できるという点で、素晴らしいと僕は思うのです。

 

ちなみに、僕がさすおにで、すげえ、と思ったのは、、、アニメだけ観て満足してた人はわからないと思うけど、、、この作品の本質ってアンチ俺TUEEEだと思うんですよね。っていうのも、ニコニコ大百科なんかの記述を見ると、

 

司波達也とは (オニイサマとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

初期設定でもライトノベル界でも最強クラス主人公であり、あまりの強さに作中で彼に対抗しうる存在が数えるほども存在しないという異常事態になっている。

 とあるように、俺TUEEE主人公の中でもトップクラスの強さであると解説されていて、過剰なまでのスペックがあげつらわれていることが多い。で、「流石ですお兄様!www」と草を生やしながら、ネタ化しているのだけど。。。

 

でも、これ、違うんですよ。尺的に仕方がなかったのかもしれないけども、「追憶編」が描かれなかったから、深雪ちゃんがなぜ、お兄様をあそこまで慕うのか、という部分がわからなくて、彼女が人形めいた盲目的なイエスマンのように思えてしまう。

 

それで、彼女の超絶美少女っぷりからして、あたかも承認欲求を満たすためだけの、奴隷じみているから――「流石ですお兄様!www」と無邪気に遊んでいるひとたちは、「本当にお兄様すごい…!」と憧れているんじゃなくて、ネタ化することで、「自分はこの主人公を同一視していませんよー」、「無双する俺カッコいいだなんてナルシスティックな欲望を充足していませんよー」、とへらへらしているように思えてしまう。穿ってみているだけかもしれないけどね。

 

で、それの何が悪いかっていうと、純粋にお兄様凄いと思えない人って、この作品の本質を見落としている分、損しているんじゃないか、ってこと。

 

えっと、僕がこの作品をアンチ俺TUEEEだと思っている理由は、まず「スティープルチェース」から端を発する。この巻では、比較的、お兄様の内面の吐露が、”()”を用いて描かれています。それで、強さのインフレが進行しすぎて、この巻ではとうとう、過剰なまでの最強設定を持つお兄様ですら、対処不能な事態に直面します。お兄様は焦ります。そのパニック具合、焦り具合が、多用された”()”と、デビルマン的ないっそもうぶっ壊してしまうか…と危うげな思想に陥る程に、お兄様が追い詰められているんです。だから僕はこの巻好き。

で、それに対する解決策は、優先順位をはっきりさせること。つまり、彼の行動原理である、妹さえ守れればそれでいい。――うん、なんかセカイ系っぽい。でも重要なのは、この作品は、「きみとぼく」から「世界」に直結しているのではなく、きちんとその中間である「社会」を描いているので、セカイ系の定義には当てはまらないということ。

そして、巻は進行し、とうとう、個人が所有する武力では太刀打ちできないところまで、強さのインフレは辿りつきました。つまり、「強さとは何か?」というのが、描かれているわけです。ラノベでも屈指の最強設定がお兄様に付与されたのは、仮に、過剰なまでの能力を有していたとしても、それではどうしようもない強さが存在する、という前提があったからだろうと僕は推測しています。

 

えっと、さすおにについてまだまだ語りたいけれど、流石にこれ以上は睡眠時間を削れないんでまた今度!

今回のをまとめると、さすおにwwwと馬鹿にするのはいいけど、それって損してね?「強さとは何か?」というテーマで見るだけでもかなりの傑作だよ?草生やしてるけど、その程度の「面白さ」で満足してていいの?って話でした。

 

あああ、結局計画立てらんなかったよ…

まあ、要素を言語化して抽出できただけでも良しとするか。。。

 

ちなみに、僕、思うのだけど、好きな、憧れた人にサプライズをしようと思ったら、その人のフォロワーやってるだけじゃダメだと思う。とりわけ、年齢差、、、すなわちそれだけの知識差というか積み重ねられたコンフーの差、TRPG的にたとえるならばEDUの違い、、、があって、しかも自分よりもスペック高くて、一日当たりに摂取している情報量にも差がある場合って、どう足掻こうが追いつけない。ウサギと亀の例があるけども、いかに自分=亀がたゆまず努力しようとも、足の速さが違うのにしかも勤勉なウサギが、しかも自分よりも早く走り始めていたら、追いつけるわけがない。で、ここが重要なんだけど、たとえばその競争が障害物競争のようなもので、ウサギがただ走るのではなくて、障害ごとに、立ち止まって、自分の頭で考えながら、その障害をジャンプしたり、回り道するなりして、ルートを探すために試行錯誤していたとする。亀は後ろから、そのルートを見ているわけだから、少なくともその試行錯誤する時間だけはカットできる。実質的な近道になるわけだね。だから、もしも潜在的に亀がウサギよりも脚が速い、あるいはそれに類する能力を有するならば、ウサギに追いつき、追い越す可能かもしれない。。。まあ、僕の場合は、脚の速さですら負けているんだけども。

じゃあどうするかって言ったら、取る戦略は、並ぼうとしないこと!

これに限る。というよりね、フォロワーって、つまるところ、相手よりも情報量が少なくなりがちなんだよ。知識領域において、相手のその一部でしかあないわけで。

そんなんじゃあ、相手にサプライズを与えられるわけがない。下手すれば、「なんだこいつ、全然わかってねえな…」って失望されるだけ。もちろん、単にファンやってるだけならばそれでいい。ワーワーキャーキャー、せいぜいミーハーして、自慰でもしてればいいと思う。けど、そうじゃなくて、相手と限りなく対等な立場で、語らう歓びを享受したいと心から望んでいるのであれば*8、相手の後ろをついて回るんじゃなくて、相手の本質を理解するために必要なことに対してのコストはかけつつも、そうでない部分では、むしろ内発的なシュミを探求することで、相手が知らない、あるいは興味を持たないようなものに関する、ある種のものの見方を提供する、、、というのが有効な策のひとつだと思うんだよね。月並みなことをしていては、月並みで終わるのと同様に、相手と同じことをしていては、こと対話する歓びという観点からすれば、相手を悦ばせることなど出来はしない。

 

 

 

*1:そういえば、キューブリック

*2:ただこれは、鶏が先か、卵が先か、という問題にもなる。アメリカ史を学ぶか、より深くハリウッド映画を味わうか。ま、一回だけで名作を深く味おうだなんてことは言わず、贅沢に何度も観るとしよう。

*3:レベルたっけえ!(笑)でも、目標は高いほどいい

*4:まったく関係ないけど、『シャイニング』で銀の鍵って出てくるけど、やっぱりこれってラヴクラフトを意識してるんだろーか

*5:が、これは伊藤計劃的読みのスターリングではない。社会が及ぼす個人の内面への影響、すなわち逆セカイ系ではないからだ。伊藤計劃は、観客を悦ばせるためにドラマは必要悪として捉えているフシがある。まあ、なんだかんだ泣くらしいんだけどw

*6:より正確に言うなら、「見ない気がする」と書かれているから、他にも作品があるかもしれないことは念頭に置かれているけれど。

*7:ふと思ったんだけど、SFでは確かにこういう類型はあまり多くないかもしれないけど、ビルドゥングスロマンというジャンルであれば、むしろこれってすごく多くないか? …ってことは、SF×ビルドゥングスロマンをしてのけた、しかも管理社会ものとしても弩級の傑作である『レダ』ってやばくね? まあ、それでも、時代のダイナミズムを感じさせるほどコツコツ描かれているわけではないから、『魔法科高校の劣等生』的な物語類型ではないんだけど。『レダ』のビルドゥングスロマンはどちらかというと<ナルシシズムの檻>からの脱出的なもので、『聖☆高校生』的なものだ。歴史を動かした漢!という感じではない。そう考えると、ビルドゥングスロマンを巡る作家の性差って問題になるんだろうか。うーむ。

ちなみに、『ハーモニー』のあのラストは、その文体、その叙述スタイルからもわかるように欺瞞である。確かに、いったんはあの世界にハーモニーは訪れた。しかし、①すべての人間にWatchMeが埋め込まれているわけではなく、それゆえ、あたかも世界全体がハーモニーに包まれたかのように思えるラストだったが、それはあくまで局所的なものであり、人類全体がハーモニープログラムに飲み込まれたわけではない、ということ②また、ミァハが、ハーモニープログラムの原型となったあの状態から、意識を持ち得たという事実から、ハーモニープログラム内の新人類もまた、忘我の状態から再び意識を取り戻す可能性がある、ということだ。

が、これは『ハーモニー』の欠点を意味しない。なぜなら、人類全体にハーモニーが訪れる、というのは幻想にすぎないからだ。彼の問題意識として、終末に溺れる贅沢は、現代人には許されていない、というものがある。ゆえに、それが幻想であることは端から承知であるはずで、その幻想を描かなかった、という事実そのものが、その作品世界の現実性、リアリティを保証している。

だが、やはり、これは嘆くべきことだ。伊藤計劃という作家が生きていれば、終末に溺れたい、と願う人種にとっての福音を描いていたに違いないから。

とはいえ、驚くべきことに、この作品が描かれたのは震災前のこと。いわゆる震災後文学では、終末は既に希望足りえない、という絶望を描いた作品がある。『シン・ゴジラ』『ヒミズ』らがそれにあたる。逆に言えば、『シン・ゴジラ』以前にこの問題意識を抱えていた伊藤計劃という作家の優れた批評眼、時代感覚は、やはりゼロ年代有数のものであった、と言えるだろう。

*8:河合先生の『大人の友情』のように、師弟関係であったとしても友情は切り結べる。もちろん、弟子は師匠に対して、敬愛を忘れることがあってはならないし、そもそも忘れる程度なら師匠師匠言ってるのって口だけだと思う