【個人用】4/9を振り返る【8日目】
5、4日目
【個人用】を振り返る【日目】
【昨日の課題まとめ】
【やったこと】=========
【メモ】========
♪Through My Blood/澤野弘之(小林未郁)、BLAZE[ZERO-TWO Ver.]/澤野弘之、Wild War Dance/澤野弘之、ドーナツホール/米津玄師、Viva La Vida/Coldplay
今日は一日が短い。主観ではない。間主観的に見て、だ。
なぜなら、昨日を24時間ではなく、31時間以上にしてしまった分、今日17時間未満になってしまうのは仕方がないというもの。
昨日のつづき
「骨餓身峠死人葛」p333~
333
→敗戦の知らせ。敗戦日をまたぐ小説なのが凄い。しかも、力関係が捕虜たちと反転している。
→いい加減、『「当事者」の時代』読み終えないと。それを踏まえて、敗戦日近辺の捕虜の話の収集をしてみる?日本が悪とか、外国がどうだ、という問題ではなく、ファクトとしてどうであったか。そして、そこから推察される心理について。あくまで、相手と同じ目線で。
→社会性とインセスト。内に閉じがちだからこそ、社会を描かなくてはいけない?ーーインセストもののフランス映画なんだっけな…ダブルって入っていたような…ボディダブル?ボディヒート?調べてみたけど、あらすじが違う。フランスのインセスト映画…ドリーマーズ?うん、これだ。『ドリーマーズ』は以前に観たけれど、その時観た感じ、なんだか子供が無邪気に戯れているみたいで嫌だった。成熟した精神ではインセストはなされないか?ーー自己愛的な描写が嫌なのか?この嫌悪感は、『レオン』の主人公が道具に堕したまま、しかも幼い少女に恋するものにも似ている。社会性の否定こそが純愛の要件としても、その描き方に細心の注意を払わなければいけない。
ただ、個人的な好みはさておくとしても、この短編にしろ『ドリーマーズ』にしろ、社会的な背景、そのダイナミズムを描きながらも否定するようにデタッチメントを描いているのは興味深い。
ドリーマーズは、ヌーヴェルヴァーグやフランス映画史について知識を深めてから、もう一度観たら楽しめるような気がする。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヌーヴェルヴァーグ
1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。
広義においては、撮影所(映画制作会社)における助監督等の下積み経験無しにデビューした若い監督達による、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性のある一連の作家・作品を指す(単純に1950年代末から1960年代中盤にかけて制作された若い作家の作品を指す、さらに広い範囲の定義もあり)。しかし、狭義には映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品のことを指す。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェ。
また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュ等の主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。
→ひとまず、狭義の監督の作品を観漁ってから、その批評に関して読んでみる?
『ゴダールの神話』
ゴダールが1978年にモントリオールで行った映画史に関する講義を収録した一冊。1982年に2冊上下巻で翻訳出版され、新たに文庫で一冊に合冊された。講義は10回ほどに分かれており、それぞれの講義前にゴダール作品1作と、それに関した他監督の作品を3~4作断片的に上映し、それを踏まえて語っている。
先に言っておくと、「映画史」と銘打っておきながら映画史を学ぶには全く適さない内容。なぜならゴダール自身が映画史にあまり興味がないからである。本書はそれよりも映画にまつわる撮影環境や技術、俳優や制作スタッフとの関係性、当時の映画界や政治的背景、さらには映画を飛び越えて創作とは何かとか、女性とは何ぞやとか人生とは云々…みたいなマクロな話まで、ゴダールらしい独特な目線で語られている。
とにかく学者や評論家と違って気まぐれで、偏った個人的思想が多い。ハリウッドを金と広告の亡者と蔑み、スピルバーグやクリント・イーストウッドを馬鹿にする。怒りの矛先は旧友のトリュフォーや自らの家族まで及ぶ。その割に意外とテレビに関してはウエルカム。アンナ・カリーナだけはべた褒め。自分の昔の作品をあまり覚えておらず、同時上映の他監督作も見ていなかったり。
できるだけゴダールの言葉をそのまま伝えようとした、という原書の前書きがあるように、本書はほぼ発言に手を加えていないようである。そのため話題は四方八方に飛び飛びで、代名詞が何を指しているのか理解できないことも多い。また基本的に「ですます調」で、詩的な表現や哲学用語なども飛び出すため、読みやすいかというと疑問。トーキーやサイレント映画、基本的な映画史の知識もある程度持っていないと、スラスラ読むのは難しいだろう。
しかし読み進めていくとわかると思うが、700ページという大ボリュームの中、無駄な部分は一切ないのが凄い。重要な哲学的発言も、くだらない四方山話にも妙な重みがあり、全てがゴダールを知るにあたって価値のある内容なのだ。このあたり、ゴダールの映画と共通する部分で面白い。映画監督の講義録というよりは、一思想家のおしゃべりと捉えた方が良いかもしれない。ゴダールのファンというよりは、映画に限らず何らかの創作を志す人や哲学的観念が好きな人の方が、どこかしらの発言にアンテナが引っかかるのではないだろうか。
文庫としてはかなり高めの価格設定だが、値段に見合ったボリュームと重み。買って読んでみて、ダメだったとしても10年後に読み返すとすいすい入ってきたりして。
『映画とは何か』
→wikiから引用した主催者・バザンの名前(!)
→ゴダールの方は、作家論的に読むなら愉しめそうだけど、映画史を俯瞰するならこちらの方がいいだろう。
とすると…
『アメリカ映画の暗号を読み解く』
『ブラックムービー―アメリカ映画と黒人社会』
『現代アメリカを観る―映画が描く超大国の鼓動』
『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』
『アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ』
を、どれか一つではなく、片っ端から読み漁り、そこに出てきた映画を観るくらいでちょうどいい…か?
今は、積読の〈消化〉だけでいっぱいいっぱいだから、秋以降に映画を観漁るための準備を少しずつしていきたい。
「骨餓身峠死人葛」に戻すと、読んでいて『八つ墓村』が脳裏を去来する。これも早めに読み終えたい。
334
〈…〉みじめな死にざまにはなれていても、手を出しそびれるほどのすさまじいものだったが、娘に手伝わせ、母の使っていた古いスラに乗せては、墓場に運びこむ、〈…〉、死体むかえる墓場の死人葛は、今が盛りの花で、夕暮れとなれば、すでに秋の気配ただよわせた涼風にさやさやとゆれうごき、その中を、運ぶうち〈…〉、もとより血まみれ汗まみれのたかを、疲れもみせず、さつきにもおびえた風はみえなかった。
→ここでも見せる異常なほどの死人葛への執着。娘のさつきもどこか異様。
腐れくずれて大地にしみこみ
→リズム感よすぎる。前半は子音のksrが反復され、後半はイントネーションからか、自然とデクレッシェンドになっている。
→やっぱり文体特徴的。意味的に繋がっていないけれど、映画におけるモンタージュのような継ぎ接ぎが一つのセンテンスでなされている。ここで注意しておきたいのは、すべて文章だということ。音や匂いや触感も、ひとつのイメージとして、映像の中に放り込まれているような感じ。つまり、映画においては切り離されたイメージでも、文章においては等価。視覚以外の感覚もモンタージュが適用される?
→読書の時の体勢。意図的に、普段読む時よりも離して〈観〉た方が、意味をゲシュタルトに理解できる?ーーその方が速読できる?
→語り。春琴抄。題材と語り=文体の一致
→切れ目なくつづくことでどんな効果が得られる?
335
〈…〉年が明ければ、政府は傾斜生産の最大重点を石炭におき、〈…〉、たちまちもりかえし
→追いつき追い越せの時代。この時点ではまだ石炭優勢。技術革新の歴史をひもといてみる
独りこつこつ狸堀り
336
食事は大鍋に湯をまず煮立て、そこへ米をほうりこんでかしぎ、むれたところでござにあけ、同じ鍋に味噌汁を煮る、坑夫餓鬼の如くにむらがり集って、てんでに食らい、弁当につめ、われ先きに坑内へ走りこみ
→炭鉱夫たちへの憐れみ。ーーもちろんこの感情がみっともないことはニーチェの通りだけど、こうも心を掻き毟られると、美しく在ろうとするより、知的好奇心を優先したくなる。
→ロミオの青い空?
→ヴィクトリア朝の炭鉱夫に関して記述されているような資料はあるか?
→オリバーツイストがそういうものだと思っていたけど違うみたいだし。
https://togetter.com/li/941441
https://togetter.com/li/237042
http://gaslight.link/book02
→ちょっと逸れるけど、そうそう、タイトル名出てこなかったけど『路地裏の生活史』だ。
→柳田 邦男と柳田 國男が違うこと知らなかった!
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/柳田國男
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
↓wiki読んでて面白かったもの
『蝸牛考』
各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論である。言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示したものである。
『桃太郎の誕生』
昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され、多くの後継者を生み出した。
→中沢新一氏による資本主義とシンボルの関係。文化人類学的な物語の分析。作品単位、作家単位ではなく、社会的に流行っている群としての作品で共有されるイメージの解析によって、集団的な深層心理を探る手法に通じる?その関係性は?
後藤総一郎編 『柳田国男をよむ 日本人のこころを知る』入門書
柳田國男『明治大正史 世相篇』
http://www.webchikuma.jp/articles/-/856
『明治大正史』第三巻の巻末
日本は如何なる国、今はどういふ時かといふ問題は、単に大きな過去の事件だけを、並べて見たのでは答にならない。〈…〉新聞の日々の記録を利用しなかつたら、歴史は尚いつ迄も二三の英雄によつて作られるといふやうな、飛んだ迷信から脱することが出来なかつたらう。
「新聞の日々の記録を利用」するという方法論は、新聞社が企画する歴史叙述という方針と呼応するものであっただろう。だが実際には、新聞記事は現実の一部をしか伝えていないという問題に直面した結果、「現に読者も知り自分も知つて居るといふ事実を、唯漠然と援用する」方法へと切りかえた。「自序」ではそのことに関する苦い反省を語っているために、調子がやや落ちているが、予告の方ではむしろ執筆を始めた当初のもくろみを、積極的に打ち出している。
「二三の英雄」や「大きな過去の事件」によってのみ歴史が構成されるという考えは「飛んだ迷信」にすぎない。
「世の中」は、人々が気づかないうちに「追々に」大きく変わっていったのであり、その変化の跡は「目で見、耳で聴き、口で味ひ、鼻で嗅ぐやうな的確なる事実」にこそ現われている。
ここに、英雄中心史観に傾く従来の歴史学や歴史文学に対する、正面からの挑戦を見ることができるだろう。
この『世相篇』の第一章の主題は「眼に映ずる世相」であり、その第一節は「新色音論」と題されている。
すでに徳川時代の後半からゆっくりと始まっていた社会の変化のなかで、人々の日常の感覚がいかに変容していったか。それを色彩にかかわる視覚と、聴覚との双方に関して柳田は掘り下げる。
産業や交通の発展とともに、人々はさまざまな色彩を愛でるようになり、強烈な色の刺戟になじんでゆく。かつてはなかった色や模様が、人々の衣服を飾るようになったことを、柳田は近代史の大きな特徴として挙げる。
→柳田國男の常尋志向。ショーペンハウアーとの対比。内発性の高い人間だけを称揚することへの違和感。二層構造ではあるけども、見下すこと自体が愚かだ。常尋志向を忘れてはいけない。
336
二十三年が絶頂で、二十六年から眼にみえて下り坂となり
→炭鉱の斜陽。国内のヨコ軸を調べる。また、このあたりから活気づいてきた産業は何か?
→百鬼夜行シリーズの続き読む?
→民俗ものとして。つまり、現代から再構築された昭和史としての物語。その空気感を味わうためのテクストとして、愉しむ?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百鬼夜行シリーズ
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/34489/1/SB0014_151-166.pdf
336 ーーつづき
〈…〉下り坂となり、朝鮮戦争終る頃は、はっきり石炭不況とさだまり、賃金のかわりに、また売勘場からの現物給与、米味噌醤油塩油魚石鹸手ぬぐい煙草までが、下界でまったく自由となったのと逆に一種の配給制度
→この時代の日用品や食料、一般人はどうやって得ていたか?
→朝鮮戦争、という歴史的キーワード。年表の位置付け
葛坑はじまって以来の事故
→どうやったら、こんなイベント思いつくのか。モデルとなった場所でこんなことがあったのならともかく、空想だけで、頭だけでこんなこと思いついたのだとしたら、凄い。とってつけたようなものではなくて、起こりうるものだからこそ、超展開とは感じない。また、野坂節の寄っては返す波のような、流れるような文体も不自然さを感じない一因かもしれない。
→リズム感はあるのに、描写としては映像的。すごい
→句点はほとんど無いが、読点は多用されている。決して短くはないが、大谷崎ほどの息の長さではない。野坂節の心地よさは、五七五が刻まれた日本人の呼吸づかいにぴたりとハマっているのかもしれない。仮に原稿用紙で書いていたとして、自分の身体性に委ねて、ビートを刻むように書いていたかもしれないけれど、もしかしたらそこに、原稿用紙のマス目、その高さが無意識なりとも反映されていたのかもしれない。これ以上は長すぎる、とか。
→そう考えると、映像型の作家には到底マネの出来ない文体が、音楽型には開かれているのかもしれない。つまり、読んでいるだけで心地よくなるような、ある種ドラッグじみた、魔術のような文体が。
→短篇とは思えない密度
→畔(あぜ)何故?
https://inakaplus.com/agriculture-1881.html
素朴な疑問として「なぜ畦の草刈りをするのかな?」と思った
草刈りの頻度が高ければ丈の高い植物は生えてこず、背丈の低い植物が畦を覆うようになってきます。最終的には野芝(野生の芝)が覆い、草刈りの手間も少なくなります。
つまり、草刈りの頻度によって植生が変わるということですね。
→こまめに草刈りすることで、手間が減る。
草を刈ると当然地面に落ちるわけですが、この草の処理も結構重要なことなのです。草を放置しても別に良いのですが「なるべくなら、集めて捨てた(あるいは牛にやる)方がええ」
草を放置すると当然自然分解が始まるわけなのですが、その草を目当てにミミズが寄ってくるようになります。するとそのミミズを餌にするモグラが寄ってきてしまい畦に穴を掘ってしまい、畦が壊れやすくなってしまうからだそうです。
→これは凄まじい!こんな理由、頭だけじゃ想像つかなかった。モグラに穴を空けられて、畦が壊れるとか…すげえよモグラ
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1484760154
→んー、よくわからん…
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7484988.html
水を田んぼの外に漏らさないようにするためですよ。他の土地との区画境界を明示する役割も果たします。
→なるほど。じゃあ、めちゃくちゃ大きくしないで、こまめに区切ってあるのは?単に所有者の違い?
337
山肌えぐる
土深く湧きでた如く
川から水をひく田はすべてこの年冷害を受けて、稲は凶作となった。
→凄まじいな…(←このコメント、マイブーム
あまりの突発事故に遺族悲しみも忘れて、ただ呆然と澄んだ流れに見入っていた。
→技術と自然環境を巡る物語。アンコントローラブル。他者としての自然。
→『読者ハ読ムナ(笑)』の『邪眼は月輪に飛ぶ』のセリフ。どうして自然を敬えねえんだ、的な。
337
たかをは、気まぐれに浮上する死体を、丁重に埋葬し、〈…〉、このたびは、生き残った者みな力をかして、墓場に運ぶ。
→死体と屍、どちらが物体的か?魂が優先されるのは?かつてある個人であったものと、単なるヒトの亡骸。
→相変わらずの葛狂い。
338
「どげんなさいますか」臼杵がたかをにたずね、どげんもこげんも廃坑以外の道はない、「うちゃ、この山に育って生きてきたもんじゃけん、とどまって仏様のお守りばしますと」
→ウルフオブウォール・ストリートと、グレートギャッツビー?華麗な生活、立身出世、そして斜陽、破滅。その劇的な人生
→漢字わからん…
https://henmo.net/2016/03/18/kanji-tegakinyuryoku/
鑿(のみ)
→おお!のみ、って書いたらちゃんと変換される!すげえなiPhone!漢和辞典ひくのもいいけど、手元にないと無精しちゃうし。というか、漢和辞典自体学生時代の頃しか引いてない。
→漢字辞典と漢和辞典の違い
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1443741584
→漢字辞典と書いていたけど、これからは使い分けよう。と思って↑のは書いてある。
カンテラ
→どこの言葉?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ランプ_(照明器具)#カンテラ
オランダ語の Kandelaar が語源であるが、Kandelaar は英語の「キャンドル」のことで蝋燭や燭台を指し、オランダで石油や電気のランプを Kandelaar と呼ぶことはない。
日本では乾電池式の懐中電灯が普及するまでは労働現場などで一般的に用いられていた携行用のランプをカンテラと呼んでいた。海運や鉄道などの交通・運輸の現場では、夜間の信号機および合図用灯具として、反射鏡と赤色や緑色の着色フィルターを備えた灯油ランプやカーバイト・アセチレンランプが用いられていて「カンテラ」と称されていた。これらは、一般的な携帯用照明の用途とは異なり、夜間や地下などの視界が明瞭でないときに合図旗の代わりの合図灯として使用されるもので、鉄道においては一般的に白(停車位置指示合図や乗降終了合図等)、赤(停止)、緑(進行)の3色切替可能なものを用いる(詳細は合図灯を参照のこと)。
→そういえば、信号の色っていつから決まった…?
→さすがに調べ物の手を広げすぎ。これは諦める。
『猫目石』見つけた。『伊集院大介の私生活』を読んでから、読もうと思う。
「骨餓身峠死人葛」読み終えた…
すさまじい短篇だった。
これ終わったら馬越の動画みて頭からっぽにしようと思っていたけど、そんな気分でもなくなった。すごかった。