コンフー積もうよ - Cause breakthrough! -

もはや質にも量にも意味はない。

【面白いサイト見っけたー】「チェコ好きの日記」

 

 

 

面白いエントリ、というのはインターネット上にたくさんあるけども、面白いブログとなると見つけるのが難しいように思う。

 

はてなであれば、そのホームページを開いてみて、ランキングとか、おすすめ記事(ホットエントリ)から探せば見つけやすいのかもしれないけれど、僕は基本不精だし、気になることしか調べたいから、その時どれだけ良い検索ワードが閃くか、という偶然に頼ることになる。

 

で、ちょうど一か月前にたまたま見つけたブログはこちら。*1

 

aniram-czech.hatenablog.com

面白さ:★★★★(4.0/5.0)

 

僕がこのブログを知ったきっかけは、書評やレビューの書き方について調べていた時、

おいしい書評の書き方 - チェコ好きの日記

というエントリを見かけたことだった。*2

少年カフカ』から村上春樹*3を引いて、書評の書き方を説明しているので、詳しくは飛んで確認していただきたいのだけど、ざっくりまとめてしまうと、彼女が書評を書く際の基本方針は、「食欲をそそるようなもの」にすることで、次に大切なのが、「自分の書く書評のゴールはどこにあるのか」ということを意識すること。

 

そして、それを実践するポイントとして、

①あらすじは極力書かない
②自分の体験を交えて書く
③作品論より作家論

の三つを挙げている。

 

いくつかサイトを回った中で、学校の感想文でも書きそうな、お利口さんなレビュー法ばかりが目立つなか、これはなかなか新鮮に感じた。

それでまあ、いくつか気になるエントリを拾っていくうちに、

 

村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - チェコ好きの日記

この秀逸なエントリを見つけた。

村上春樹について好意的に、かつ、明晰に語られているというだけで僕はこのブログが、チェコ好きさんが好きになった。

 

ちなみに、ブログ「チェコ好きの日記」は、どうやら現在、毎週木曜日の午後十時あたりに更新される模様。夜中近いから「ティージーアイエーフ!」と叫びながら読めばきっと愉しめる。……いや、夜中だから大声はあかんよな。

 

他にも、このエントリ書くために読み返してる中で目に入ったものだと…

たとえばこれ。

なぜ私はあの人が好きなのかしら - チェコ好きの日記

うん、「おいしい書評」の実践例だ。

あの人こと、山本英夫氏について語っているエントリ。

同じ作者の漫画である『新のぞき屋(1993年-1997年)とホムンクルス(2003年-2011年)とを比較して、

本当に「見る」だけならのぞきでいいんだけど、その人間に直に触れるためには深層心理的な部分にタッチせざるを得なくなる。だから同じ「人間の真の姿」を扱っているといえど、「見る」だけだった『新のぞき屋』が『ホムンクルス』になって「触れる」ところまで進んだと考えると、山本さんの中でこのテーマが発展・熟成したことがわかって面白い。

と指摘しているのが鋭い。

「おいしい書評の書き方」*4から再び引用すると、

(…)作家って手を替え品を替え設定を替えながらも、結局どの本でも同じテーマについて追求していることが多いんですよね。

と言っていて、激しく僕も同意する。

実際、作家にとって切実(オブセッショナル)なテーマほど、繰り返される傾向にある。だからこそ、作品単体で観るよりも、並べて読んで、その輪郭をとらえた方が語りやすい、というのは本当に慧眼だと思う。

 

想像力の向こう側 - チェコ好きの日記

このエントリはちょっと泣きそうになった。それと、想像力の枠を少しでも広げようとするその意志が輝いてみえた。

 

好奇心の人、不安の人 - チェコ好きの日記

これを読んだら、栗本薫の『レダ』を思い出した。

 

 

アヘンで人は幸福になれるか? - チェコ好きの日記

阿片というと、やっぱり僕はコクトーの『阿片』が思い浮かぶ。

阿片―或る解毒治療の日記 (角川文庫)

格調高い堀口大学訳。

……といいつつ、読みさしたまま積読の山に埋もれているんですけどね(笑)*5

 

さて、チェコ好きさんのエントリに話を戻すと、冒頭から凄い。

世の人の苦悩は、たいてい「欲望と現実のギャップ」から生まれる。

ここだけ引用するとアブない新宗教の教祖みたいなんだけど、すとんと腑に落ちた。

アドラーなんかは、悩みは対人関係にある、と喝破していたけど、僕はチェコ好きさんの言い回しの方が汎用性高いように思える。*6

しかもそれだけじゃない。苦悩をなくす――つまり欲望と現実のギャップを埋めるための手段のひとつを、

世に蔓延るたいていの商品は、「私があなたの現実を、欲望に追いつかせてあげましょう」とアピールする。

と表現している。

生きていくとすれば、消費社会から抜け出すことが出来ないのは仕方ないんだけど、やっぱ疲れるんだよねぇ……。

欲しくもないものを恩着せがましく「この商品どう!?」「欲しいでしょ!?」ってさ。必要は発明の母、というけれど、いまや生きていくために発明が優先されて、無理やり必要が生みだされている状態。消費される量などたかが知れているのに、狂ったように生産される食物、製品、サービス。売れば売ったで買わされる。搾り取られる。――パスカル風に言うのなら――ああ、なんて惨めなのか。

 

チェコ好きさんは語る。苦悩を解消する方法はもう一つあるよ、と。

消費することを、「現実を欲望に近付ける」とするなら、その逆、

欲望を現実に近付けること。欲望をダウンサイズすること。「モテたいのにモテない」から苦しいのであって、そもそもモテたいと思わなければモテなくても苦しくないのだ。これは詭弁なんかじゃない。

しかしこれは実は簡単なことじゃない。

欲望のダウンサイズを合法的にやるには精神の鍛錬が必要で、私ぜんっぜん詳しくないんだけど、たぶんガチでやるには仏教の世界とかに行くといいんだと思う。ただ、違法でいいから(良くねえよ)もっと簡単お手軽に欲望のダウンサイズがしたいよ〜! って人におすすめしたいのは、アヘン。真面目な話、アヘンの吸引と仏教の世界って繋がっていると私は思っていて、ていうかドラッグと宗教って全体的に繋がってるよね。

アヘンの効能がそういうものだとは知らなかったけど、確かに調べてみるとダウナー系のドラッグだから、ある種の悟りの境地、いわゆる賢者タイムに入れるのかも。

僕も似たようなことを時折考える。

恋愛感情だとか、幸福感とか、しょせん脳内での化学反応だよね。だったら、プロセス度外視するなら、ドラッグでいいじゃない、って。

僕は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が好きで、あれが実現したら本当にユートピアだよな、と考えている。まあ、実際にはあれを敷衍させた社会システムなんだけど。どのような仕事をしていようが、それ自体に全人類の一人ひとりが幸福感を覚えられるようなそういう社会。もちろん、あらゆるシステムにはエラーがつきものだから、そのような仕組みを作ったところで、そこから漏れ出る人が出てくる。仮に、一億分の一の確率で身体や精神に障碍が生まれてしまう可能性があるとすれば、それは倫理的に納得されるものじゃないだろう。一億分の一、つまり一億人に一人は生まれてしまうからだ。さらに仮定を重ねて、設計段階をクリアできたとしても、それを実現できるのはいつになるのか。少なくとも、いまじゃない。だとすれば、いまの僕にとっては価値のないものだ――とかそんな感じ。では、違法とか脱法とか、そのあたりのことを度外視して、自分一人、おクスリに耽溺した堕落ライフを満喫するとしたら――?

 

(…)モテなくてもいい。結婚なんてしなくていい。お金もなくていい。好きなことを仕事にしなくたっていい。ガンガン稼いでモテまくって雑誌やウェブメディアに取材なんかされなくてもいい。欲しいものもない。行きたい場所もない。食べたいものもない。ただこうして、横になって、ダラダラしながらアヘンを吸っているだけで、めっちゃ幸せ〜〜〜!

 

「そんなの、本当の幸せじゃないよ!」って言うことは簡単だ。ここまでプッシュしておきながらあれだけど、私だってアヘン吸って横になってるだけの廃人の日々が幸せだなんて本気で思っているわけじゃない。ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。苦悩がないならいいじゃない。幸せだって本人が言うんだったらいいじゃない。どうして先行する欲望を現実が追いかけなきゃいけないの? どうして逆だといけないの? 

 

一つ問題があるとするならば、いつかお金が尽きるってことだ。アヘンには中毒性がある。ハマればハマるほど、それなしでは苦しくて生きられなくなる。人を殺してでもそれを手に入れたいと思ってしまう。アヘンを買うためのお金がなくなってしまったとき、たぶん私たちは法を犯す。普通の社会生活はもう送れなくなってしまう。

そう、おクスリは高いのだ。それを法の目をかいくぐってバイヤーから上手い事買い付けることが出来たとしても、十分なおクスリを買い集めることはかなり難しい。金があることをほのめかせば、足元すくわれるだろうしね。無いなら無いで稼ぎつづけるしかないんだろうけど、クスリをキめつつ社会生活送れるくらいなら、最初からクスリなど必要ないと思う。

 

ただねえ…彼女の構想する「無限アヘン」の社会ってどうも抜けがあるように思う。映画『マトリックス』では、人類は、機械たちからエネルギー家畜として眠らされ電脳世界で暮らしてるけど、巨大ロボットものにおける人型兵器を造るくらいならその技術で別の兵器を造った方がずっと経済的だ、というのと同様に、しょせん空想だから走るシステムだと思う。

確かに人の幸福というのは快楽によって説明できる部分はある。それを継続的に与えることが出来るのならば、化学反応で幸福であり続けることは可能だ。ただ―――

 

それって生きる意味、あるんですかね? *7

 

薬物漬けで「あばばばばばきんもちいいいい!!!」ってなってるだけなら、それって死んだ方がマシなんじゃない?

ゲーテじゃないけど、最幸の瞬間で死ねるのとすれば、薬物漬けの人生よりもマシだと思う。死後にせよ、薬物漬けにせよ、忘我であることは同じなんだから。

だから、僕はあくまで欲望しながら生きていきたい。

その苦しみを引き受けてでも、生まれて良かったと実感したい。

消費を憎んで、欲望憎まず。

むしろ欲望の最涯へ――

 

 

などとポエムかましてみたけど、否定しているのは「無限アヘン」の社会であって、自分語りのダシにした元のエントリは十分示唆に富んでいたし、何よりアーカイヴとしての「チェコ好きの日記」というブログは非常に面白い。おすすめです!

 

 

 

 

*1:なぜ一か月前か。

その時途中まで書いて、放置したままだったからだ!

*2:書かれたメソッドを実践できていないのが悔しいところだけども、まあ、作家論じゃなくて作品論が書きたいからそこは仕方ない。

*3:厳密には、内田樹の『村上春樹にご用心』からの孫引きだそうだけど、チェコ好きさんが実際に所持していて、それを確認したんだからさして違いはないように思われる。

*4:それにしても良いタイトルだよなー。こういう本売ってそう

*5:周辺情報から推測するに、詩人のコクトーが阿片を吸って、それを、ただ欲望に埋もれるのではなく、医者のように、学者のように、自分の身体や精神に起こったことを書き綴ったもの、と僕は把握している。

*6:もちろん、広義に捉えるならば、現実=他者とすることで、アドラーの理論は適用できるんだけど、やっぱり、対人関係、という語に縛られちゃうからなぁ…

*7:人生の意義、価値、意味、というのは最初からあるものではなくて、人が生きながら自分で定義し続けていくものだと僕は考えている。