コンフー積もうよ - Cause breakthrough! -

もはや質にも量にも意味はない。

【一限目】超重要な歴史的事件をざっくりと俯瞰する【個人用】

参考サイト:本気でわかる☆アメリカ史の超あらすじ - NAVER まとめ

(気になっているもの:カリグラフィー、種類と歴史)

 

 

【追記】 時刻は8:19(ダッシュ以下は、追記以前に記録していたもの。)

→メタ情報の記録

 

・読み返すときの前提。というか注意事項

1)これは電文体による思考の言語化以前の文章である、ということ。

2)アメリカ史についてほとんど知らなかった状態で、参考サイトを読んだということ。

3)参考サイトはザッピングで、出来事だけを拾い読みして、その時、脊髄反射的に思いついた問いを機械的に並べていったということ。

 よって、読み返すときは、出来事に並べた問いに対して、どう答えられるか?と自分に改めて問い直してみる…と、知識を立体的に眺められるかも。

4)他のサイトと照らし合わせてみる。

 このサイトでは省かれた情報が、他のところにはあるはず。逆もまた然り。

 

……こんなところかな?

あ、いや違う。

えっと…あれ? なんだっけ。2)か3)を読んでいる時に何か閃いたはずなんだけど、読み直してみても、異物感めいたものが見つからない…。

うーん、思い出せないから、割り切ろう。  追記終了。 8:29

 

 

【再追記】8:30

 

追記前の文章見てたら思い出した。というか思いついた?

ザッピング、歴史的事件

各項目の解像度を上げる。

 

→あ、変に表記にこだわるより、いったん思考のキーワードだけ記録した方が、思考速度に言語化がある程度追いつくかも。まあ、ここらへんは自分の言語化能力の上昇とか、あるいは工夫の試行錯誤で、おいおいメモ能力を上げていくしかない、かな。ああ、思考速度なみの速筆な海燕さん羨ましいなあ。ま、ないものねだりは生産性がない、か。コンフー積まないとね!

 

で、えっと、思考の再構築を行ってみると、、、

ダッシュ以下のメモに対して。(多少、繰り返しになるところがあるけれど)

その(この?)文章は、上記、参考サイトをザッピングしたものである。

 

(↓のメモが長くなってしまったけど、つづき)

下にある追記以前のメモは、必要最小限だからこそ、かなりゆとりがあることになる。

年表的に考えるなら、ぎっしり記入されているのではなく、大分すっかすか、ということ。

 

それはそれとして、下記の歴史的重要語句は、最低限だからこそ、ひとつひとつの項目をつくって解像度を上げる、知識の掘り下げを行う必要がある。

→洞察。初めて何かを学ぼうとするとき、モザイク状に、ストラクチャーの全体像をつかみ、少しずつ解像度を上げていく方が、理解しやすい。記憶の定着にもつながる。ダメなのは、ディティールばかり拾い上げて、1から10まで順に憶えていこうとすること。カレントディレクトリの、構造全体から見て今どこにいるか、その立ち位置を確認しながらじゃないと、今なぜそれを学んでいるのか分からず、モチベーション低下を招くし、情報の取捨選択が出来ないから、体系化された知として、有機的に結びついた情報として、脳内に蓄積されない。

 だが、ここで面白いと思えるのは、人は体系化されていなくても…記憶された情報が無秩序に放り出されたままでも、何かきっかけがあれば、それが有機化される、ということだ。そのきっかけは、なんだっていい。けど、それは割と潜在的なもので、知識を醸成させる…まさに「ユーレカ!」というようなもの。

 

→ふと思ったこと。文章のリズム感。間(ま)の再現が難しい。読点”、”による息継ぎの長さと、漢字の開き具合によるリーダビリティ、つまり、漢字があまりに並びすぎると、窮屈な印象を受けて、文章を読むときにストレスを感じる。それはアンリーダブルだ。……そう考えると、ここらへんのリーダビリティ論に関して、海燕さん流石だよなあ。いかにストレスをなくすか、ということについてコンフー積み上げてる人には敵わない。→間の再現に戻すと、きっかけは、「思考の再構築している文章」中での「その~文章は、上記、参考サイトを~」の部分。「文章は」の次に来る読点では、…………ああああ、リズムが変わってしまった。あ、でもbpmが変化しただけで、基本的なリズムは変化してないから大丈夫、かな?……で、話を戻すと、、、、

「文章は」の次に来る読点では、ちょっとした止め(ポーズ)が入る。

しかしその次の「上記」後の読点ではポーズはない。

だが、ここで読点がないと、「上記参考サイト」、と少し見づらいように思える。

だが、発音上というか、音読するように読むのなら、「上記さんこうサイト」というフレーズが一息になされている。もちろん主観的に。んー、まあ、ここらへんは今後試行錯誤していかないとかぁ…。

 

メモ;読点の間と、漢字の開き具合に関するリーダブルな文章テクニック

   脳内再生される文章のリズムの再現と、字面による圧迫感。

   いかにストレスをなくし、(自分含め)読者の、文章の認識速度を上昇させ、空気のような文体にするか。もちろん、クセのある文章も味わい深いものだけれど、こと、内容を伝えるだけならば、個性的な文体だとか、美文、というものを目指すことは却って目的を阻害する結果となる。問題は目的意識。伝達速度至上主義であれば、文章を書くあらゆるテクニックはそこに収斂する。悪文、と言われることに、それこそアドラー的な勇気を持たねばならない。

→あ、そうか。インデント使った方がリーダブルだな。

→そうか、漢字を閉じる(=開くの対義語として)場合は、読者のためにルビ(黒丸文体的な、厨二病的な横文字ではなく! あくまで、ひらがな)を振ったり、あるいは、開いた文字が続くようなら、傍点を振ればいい。

 ただし問題は、自分自身が、傍点を振るのが嫌いだ、ということ。その強調は、びっくりさせる時、つまり、読者の心を氷のように冷たい手でそっと包み込むような演出をしたい時だとか、極端に言えば『十角館の殺人』における「ヴァン・ダインです」的な、伏線を重ねた上でひっくり返すような、世界認識の変容、SOW的なもの……それまでに読者の思考を誘導し、脳内に構築された情報のストラクチャーを巨大なハンマーで粉砕するような破壊力をもった、鋭さのある一文……そういうものにこそ、傍点が相応しいように自分は思う。これは、あくまでこれまでの読書遍歴による個人的な傍点論であって、すべての作家はこうすべき!というような主張ではない。でも、肌感覚に馴染まない表現ってやっぱり嫌だ。読んでて嫌なのだから、書くときはなお嫌だろう。

 そもそも、メモ帳だとか、こうしたブログなんかだと、傍点を振れなかったり、振る方法を知らなかったりで、傍点を振る機会が非常に少ないことも、異物感に拍車をかけている気がする。

 そういえば、五代ゆうが、確か『五代ゆう&榊一郎の小説指南』の中で、書きたい作品の文体は、イメージに即した作品を事前にインストールすることで、文体を形成する、というようなことを言っていた。確かに、自分の文体をチューニングするには、それって良い方法だと思う。ただ、このメソッドには向き不向きがある。作家性の強い人、というか、他人の文章に対して柔軟性が無い人は、インストールできない。柔軟性が高ければ高いほど、その人の持つ文体のポテンシャルは高いともいえる。ただ、これは裏を返すなら、柔軟性が高い、というのは同時に、他人の文章に影響を受けやすい、ともいえる。これは、執筆期間が長くなれば長くなるだけ、(文体の、いってしまえば同一性)インプットとアウトプットの両立が難しくなる、というデメリットにもなる。

 これに対する処方箋としては、①そもそも、文体が変化していくことを気にしない②執筆する直前は必ずチューニングする。吹奏楽部の奏者みたいに。

 チューニングすることを前提とするなら、それはどれだけ文体のデータベースが頭の中にあるか、ということになる。タグ化されているか、ということでもいい。一言一句憶えていなくても、どの作品のどの文体が、自分の作品の空気感、文体にマッチしているか、という判断さえ付きさえすればよい。エジソンアインシュタインの違いのようなもの。

中二病、という言葉がある。厨二病、という言葉もある。しかし、厨弐病、という言葉は見かけない。不思議。

 

→表記、ひらがなでも良いところを、カタカナでも書ける、ということ。「すっかすか」と「スッカスカ」、「ぼく」と「ボク」。むろんそれらは恣意的なものではあるんだけど、字面から受ける印象はやはり違うように思う。後者の一人称にいたっては、それ自体がキャラ付け、描き分けになったりもするから、結構シャレにならない。

 しかも、文脈にもよるけども、表記によっては軽薄な印象を与えさえする。難しい。

 →落差、文脈の形成…スキーマ

 

 

 

えっと、まとめ。

 

新しく学ぼうとするときは、まずは全体像を掴むように、モザイク状で憶える。

憶えるべき情報、というのは、全体像を構築する上での骨子に当たる部分。

仮に六角形で喩えるとすると、最初に憶えるべきは、辺ではなく各頂点の六個。

輪郭さえ分かってしまえば、それを繋ぐことが容易となる。…たぶん。

 

 

このエントリで、得たテクニックを適用させるとすると、

下記の項目ごとにエントリをさらに作成し、それらについて、具体的にどういうことがあったのか…などをまとめ、言語化する。

重要なのは、まずは頂点を探すこと。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

ピューリタンの移住

ピューリタンって?

→なぜ?

→いつごろ?

→これによってその後どうなった? =変化。 →次の「事件」に絡む?

 

 

独立戦争

→誰と誰が戦った?

→なぜ?

→いつから、いつまで? (→そもそも、明確な年がわかるもの?)

(→西暦が誕生した経緯について)

→これによってその後どうなった? =変化。 →次の「事件」に絡む?

⇒戦争を学ぶ場合、この四つ以外で有効な問いは?

 

 

南北戦争

→誰と誰が戦った?

→なぜ?

→いつから、いつまで?

→これによってその後どうなった? =変化。 →次の「事件」に絡む?

 

 

④ペリー来航

→いつ?

→彼の来航目的は? (→その目標は達成された?)

→「来航」は日本視点。なら、アメリカ視点ではどう記述される?

→彼が「来航」した国は、日本以外だとどこ? →あるとすれば、それはいつ?

→これによってその後どうなった? =変化。 →次の「事件」に絡む? =日本とアメリカで場合分け。

 

 

世界恐慌

→とは?

→いつ?

→これによってその後どうなった? =変化。 →次の「事件」に絡む? (=この問いでは、絡むか否か、となる。「どう絡むか?」という問いならば、もう少し影響を詳しくみられるか?)

 

⑥世界大戦

=朧げな記憶では、国家間で生じた戦争が、同時期に多発して、二大勢力にわかれ、戦争と戦争が合併した形になっていたはず。

→はじまりの戦争は? →いつ? →なぜ生じた? (→なぜ、その戦争が最初だった? =地政学的な問題か?)

→他にも生じた戦争は何がある? →いつ? →なぜ? →どことどこが争った?

→仮に勢力が二分されていたとして、なぜ勢力が二つだったのか? →二つに分かれていた、ということはすなわち、それらの間に横たわる一つの線引きがあったはず=その線、すなわち勢力を二分した軸とは何か? =思想的なもの?

 

※⑦~ 世界大戦から911までに、他にアメリカで生じた事件とは?

GHQとか、

 

⇒数学史や哲学史的な事件も同時に調べておく

→調べる時は横軸を過剰に。いっけん作業量が増えて大変に思えるが、広がりを持って憶えた方が、案外記憶の定着は良いし、そもそも時代感覚を養う上で有効なはず。経験論的に。