【個人用】4/18(水)を振り返る【17日目】
【個人用】を振り返る【日目】
【課題】
【やったこと】=========
【メモ】========
FGO、天竺イベント開始。
ダウンロード時間、あまりかからなかった。
もしかして、もともと中に入ってて、今回のはある程度の修正をかけて呼び出しただけだったりして。
今日の睡眠時間は三時間ほど。
今のところ眠気はないけど、後半来そうで怖い。
【やったこと】=========
星々改め、のれるに12話読んだ。
【メモ】========
Yさんがぷいきゅあおじさんになった。仲間が増えて嬉しい。たぶん、はなちゃん好きだと思うんだよなあ、Yさん。
交流分析について調べたい。
http://www.counselorweb.jp/article/ta.html
*1:作業用BGM:飛燕/米津玄師、Private Wars /A-RISE
もろもろ届いたー
- 作者: ジャックケッチャム,Jack Ketchum,金子浩
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 1998/07/01
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まずはこの一冊から 意味がわかる線形代数 (BERET SCIENCE)
- 作者: 石井俊全
- 出版社/メーカー: ベレ出版
- 発売日: 2011/06/22
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まだ届いてないのもあるけど、とりあえず来月後半あたりまでに、積まないできちんと消化出来るようにしよう。
【個人用】4/17(火)を振り返る【16日目】
【個人用】を振り返る【日目】
【課題】
【やったこと】=========
【メモ】========
とうとう電車に乗り遅れてしまった。仕方ない、次から気をつけよう。
ただ、今日また寝すぎてしまったのが痛恨のミスだなあ。やりたいこと、やれること沢山あったんだけど。
【課題】
【やったこと】=========
・FGO第二部一章(十六、十七節)
→Tさんも同じくらいまでらしい
・『自分のアタマで考えよう』(三章途中まで)
→目から鱗すぎて、魚だったらやばいことになりそう
http://uototo.sakura.ne.jp/brog/post-1720/
【メモ】========
届いた本について→ほぼ書いた
コミュニケーションは長期戦
東洋医学的な性格類型論でまず相手を図り、そこから解像度を上げていく。
→五行説
→理論に即しているかどうかとか、理論そのものの整合性が重要なのではなく、あくまで枠組として利用し、どういうタイプにはどう接するべきか、というのをトライアンドエラーで自分なりに修正していくのが大事。
→五行は、西洋的な理論よりもイメージが掴みやすいし、個としての理論だけでなく相性としての理論としても分かりやすい。そしてまた、演繹的な理論ではないものの、何千年というトライアンドエラーの中で生き残ってきたものだから、統計的にも申し分ないと思う。しかしこれはあくまで、科学的に優れているか、ということではない。実践的な対人論として生き残ってきた、という実績に対する信頼。それに、西洋医学は治すことに優れていても、未然に防ぐ、体調管理する、ということに関してはやはり東洋医学に軍配があがる。
→いくつかのサイトで診断してみたけど、消極的にも積極的にも、どうやら自分は火のようだ。…明るいとは思わないんだけどなあ。
https://urapri.net/火の特徴(五行占い)#1
https://shanti-phula.net/ja/toyo/digests/ruikei/
水弟?
https://www.koseikagayaku.com/五行類型論-体癖/
野口晴哉氏
https://blogs.yahoo.co.jp/sakasitarokai/62224508.html
→五行類型論について触れているが、この本とは無関係に知ったよう
https://www.fsoft.co.jp/suimei80/takesitaigaku.htm
竹下雅敏氏↑のサイトでは竹下氏と、下の名前がわからなかった
一回目に線引きながら、作品論としてレビューor書評について。
→二回半読む、を部分的に読み直す。
→まちばりあかねさんの手法も参考にしてみる。
ショーペンハウアーの人生について、読み直す?
→その前に論考を読んで、その後、論考を読むを読む。
伊集院大介の私生活を読んで、その後ココロコネクト読む?
ミルトン失楽園読む?
FGOやってたら帰りの電車も乗り過ごすところだった…!
駅長さんも、呆れるような半笑いで、「はい、もう良いから行ってください」と定期チラ見せの半分顔パスで。
それにしても第二部一章やべえな!
十七節、進捗度1〜3はおざなりだった分油断してた。まだ跳ね上がるっての!?
うわ…しかもこの展開かよ…
→メタに考えるなら、まずは第一のロストベルトを放棄することに対して、読者が罪悪感を負わないように予め敵に襲撃させたんだろう。これによって、悲惨な彼らに対して感情移入させつつ、敵に対する怒りを燃やさせる。うわ、しかもここに神父がいること自体計算されてんな。
17節クリアした。この土地に枢機卿を配置させたの秀逸すぎでしょ。ある意味、stay nightの延長。すげえ、すさまじいよ!ライターわからんけど!
進捗度1〜3が短かったから完全に油断してた。これ自体計算されてたみたいでニクイ演出
*1:作業用BGM:サンキュー/HOME MADE 家族、春雷/米津玄師
→マスターミッションでのマシュの言葉より
【個人用】4/16(月)を振り返る【15日目】
【個人用】を振り返る【日目】
【課題】
【やったこと】=========
【メモ】========
電車に、乗り遅れるかと、思った……
いぇーすっ!
とうとうオケアノスのきりたん、二つめスキルマった!
でもこっからさらに釘60本とか果てしねえ…
ふぁー!?
そういや、昨日の振り返りで、ダイヤ様について言及するの忘れてた。超テンションとか口ずさんでる場合じゃなかった。
んー、これは別のエントリで書いた方がいいかな…?
はぁ…マジぶるーまんでー
略してぶるまん。決して、ごちうさのあの方では、無い。
つか青山ブルーマウンテンって今更ながらすげえ名前だよなあ。そういう店ならありそうだけど、人名って言われてもクエスチョンマークが飛び交うだけだろ。それをペンネームにしちゃう翠さんマジぱねえ。
https://anibu.jp/20161203-aoyamabm-40877.html
ブルシャロについて熱く語っていて草。美味しいお酒が飲めそうですね!
◇ ◇ ◇
さすがに四時間程度はきつかった。起きて間もない時は、死にたくなるくらい。意味もなく世界を呪ってみたり。
とまれ、昨日寝すぎなかったおかげか、月曜にしては珍しく眠ることが出来た。
こうして書いている今は睡眠不足感に悩まされてないし、意外と好調。
【やったこと】=========
・FGO第二部一章(十五節)
・『自分のアタマで考えよう』(はじめに)
→ちきりんさんが、入社当初は考え方がわからなかった、ということに驚いた。先天的に持ち合わせていたものじゃなくて、後天的に身につけたものだったのか…まあ事実かどうかまでは分からないけども…
・『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』(一章)
→目次を見るだけで頭の良さが分かる。
無数にエピソードを取り揃えることも凄いんだけど、構成がきっちりしてるのはやはり良い…(陶然)
こういうのは、好きなところから拾い読みする方が良いのは分かってるけども、やっぱり旧来の頭から読んでく形式から抜け出せない。七章の古代遺跡の旅を愉しみに、ひとつひとつ読んで行こっと。
第一章の扉。
お金をテーマにした章を真っ先に持ってきたのは、身近だからなのかなーと思ったけど、お金には「その国の歴史や文化、時々の政治や経済情勢を色濃く反映して」いる、という指摘に脱帽した。洞察力ぱないな。そりゃあ「よくそんなことに気がつくね!?」と友人家族にもあきれられるよ。きっと、驚きすぎて、またか…となるんだろうね。あきれられるくらいの観察力と洞察力って凄まじいな!
エピソード1
一ページ目から固有名詞いっぱいで目を背けたくなる。
売るモノがないから、苦し紛れに外貨を強制的に使い道のない現地通貨に両替させていたビルマ。
怒り半分呆れ半分で何か買えないかと市場を物色していたちきりんさんだったが、あまりに安すぎて、何を買おうとお金が減らない!というエピソードは、くつくつとなんとも言えない笑いがこみあげてきました。
こっからここまで!と大人買いしても運搬するのが大変なだけという。お金があれば何でも出来る、なんて言うけど、それはやはり環境次第だよなあ。エピソード2兌換券。
飛んで、エピソード7はとうとう日本のお札で、伊藤博文がお札から消えたワケ。
章の最後に持ってきたのは、これまでの六つの事例で、外貨による常識クラッシュを経験させておいて、身近だからこそ、気づきにくい枠組を提示し、それを揺さぶることで強烈な、知的興奮を体験させよう、という意図があるのかな、と思っていた。
でもそんな生易しいものじゃなかった。
1984年に紙幣デザインの全面改定が行われた。公式には「偽造防止」だけど、「韓国併合を行った伊藤博文の紙幣をいつまでも残しておくと、摩擦が生じるかもしれないから」と洞察力をかます。
些細な違和感から、その社会背景に目を向けていて凄い。ここでも帽子が脱げた。もう、帽子はスタンドに引っ掛けておいた方がいいんじゃないかな。いい加減禿げちゃうよ。
社会派ブロガーおそるべし…!
・『歴史とは何か』
Ⅰ 歴史家と事実
ジョージ・クラーク教授*2は第二次『ケンブリッジ近代史』の序論で、やがて「完全な歴史」を作ることが出来ると、六十年前に述べたイギリスの歴史家アクトンおよびその協力者を批判。
その後の歴史家は、不完全な歴史しか作れないことを理解しており、むしろその仕事が幾度となく乗り越えられることを期待している。
過去に関する知識は一人あるいは何人かの精神を通じて伝えられて来ているものであること、これらの精神によって『加工』されたものであること、したがって、絶対不変の元素的な非人間的なアトムから成り立ち得るものではないこと、これをよく考えている。
が、批判先はそれだけにとどまらず、懐疑主義に逃げ込んだり、すべて歴史的判断も甲乙がなく、『客観的』な歴史的真理というものはない、という学説に逃げ込む短気な学者たちをも射程に含んでいる。
二人を引用し終えて、カーは言う。
こういう研究は歴史の本質ということよりだいぶ広汎な問題へ迷い込んでしまう。
二人の食い違いは、それらの発言に横たわる期間における私たちの全体的な社会観の変遷を反映している、と。
アクトンは、ヴィクトリア時代後期の積極的な信念と冷静な自信とを正直に語っているのに対して、クラークの方は、ビート・ジェネレーションの当惑と取り乱した懐疑主義とを伝えている。
「歴史とは何か」という問題に答えようとするとき、私たちの答えは、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答えの一部分を形作っている。
十九世紀は事実調査の時代
→『1984』読みたくなってきた
『辛い世の中』の主人公グラドグラインド、かく語りき。
「私が欲しいのは事実です。……人生で必要なのは事実だけです」
十九世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったらしい。さっすがディケンズ、社会的だ。
約一世紀の間、ドイツ、イギリス、フランスの歴史家たちは「本当の事実」という魔法の言葉を呪文のように唱えていたそうな。
科学的な実証主義者「先ず、事実を確かめよ、然る後に、事実から汝の結論を引き出すべし」
イギリスでは、こういう歴史観は、ロックからバードランド・ラッセルに至るイギリス哲学の支配的潮流である経験論の伝統と完全に調和した。経験主義の知識論では主観と客観との完全な分離を前提とするからだ。感覚的印象と同様に、事実は外部から観察者にぶつかって来るもので、観察者の意識から独立なものだという。
歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来る。
自由主義的ジャーナリストCPスコット「事実は神聖であり、意見は勝手である」
歴史的事実とは何か
著者は、過去に関する我々の知識の本質について哲学的な議論をする気はないよう。
ただ、仮に、①シーザーがルビコン河を渡ったという事実と、部屋の真ん中にテーブルがあるという事実とが同じ種類の、あるいは、似たような種類の事実であるとする。
②さらに、こらら二つの事実が同じ仕方、あるいは、似たような仕方で私たちの意識に入って来るとする。
③加えて、これら二つの事実が、これを知る人間との関係において同じ客観的性格を持っていると仮定する
このように仮定してみても、過去に関するすべての事実が歴史的事実であるわけではないし、歴史家によって歴史的事実として取り扱われているわけでもないという困難に陥ってしまう。
歴史上の事実を過去に関する他の事実から区別する規準は何なのだろうか。
→記述されない事実に関すること?それとも、明文化された歴史の裏付けに関すること?後者は、その妥当性を保証する問題と言える。
ハウスマン「正確は義務であって、美徳ではない」
正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなもの。
こういう必要条件については、歴史の「補助科学」と言われてきた、考古学、金石文学、古銭学、年代学などを頼りにすることができる。
歴史家というのは、専門家が陶器や大理石の破片の系統および年代を決定したり、意味不明の碑文を解読したり、正確な日附を定めるのに必要な精密な天文学的計算を行なったりすることが出来る、そういう特殊技能を必要とするものではない。
興論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列すること
事実はみずから語る、というのは嘘で、事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものだ。
いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのだ。実際、シーザーがルビコン河を渡ろうが、こうして文字を書いていようが、同じ事実ではあるが、後者は歴史として記述されない。歴史家は必然的に選択的なもの。歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実という堅い芯を信じるのは、前後顚倒の誤謬である
→たとえば鳥が見ている紫外線の色は、多くのヒトは視ることができない。だとすれば、人間の認識できない現象というのはどうしたって記述できないことになる。素粒子も認識できない、と言えるが、それを観測する装置まで含めた広義の意味での認識、であれば、人の認識の限界というのはやはり存在することになる。あるいは、人類が造り得る最速の記述装置、というのを考慮してみても、ゼノンのパラドクスではないが、記述と記述の間にある時間、という有限と無限の問題にも絡んでくる。すなわち、どうあがいても記述しえない事実というのは存在する以上、それは恣意的に選択された歴史だということになる。
史料集が、かつては誰かが知っていたに相違ない無数の事実全体のうちから生き残って、これこそ歴史上の事実ということになったのは、いかなる偶然によるのか、いかなる摩滅過程によるのか
古代および中世を研究したビュリ曰く「古代史および中世史の記録には脱漏が散在している」
しかしそれはさほど重要じゃない。
紀元前五世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたかは分かるが、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって、どう見えていたかということになると、私たちは殆んど何も知らない。
バラクルー教授「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である」
不必要な事実を蒐集すること
信仰
文書が語るもの
グスタフ・シュトレーゼマンが遺した大量の書類を秘書のベルンハルトは『シュトレーゼマンの遺産』として編纂した
当時、西方政策がいくつか見事な成功をおさめており、これがシュトレーゼマンの外交政策のうちで重要だと思われていた。一方、ソ連との関係はなんの成果もなく終わったと思われていたが、実際はシュトレーゼマンはソ連との関係に絶えず熱心な注意を払い、また、この関係が彼の外交政策全体の中で大きな役割を果たしていた。
→なしえたことの偉大さを知ることは容易だが、未然に防いだことの偉大さを知ることは困難
サットンの縮訳版。
シュトレーゼマンの会談の事例。
彼の議論がいつも適切で説得力があるのに反して、相手の議論が概ね貧弱で、混乱し、説得力に乏しいことを明らかにしている。これは、外交上の会談に関する一切の記録を通じてよく見られる特徴。
これらの文書は、何が起こったかを私たちに語っているのではなく、ただ、シュトレーゼマンが起ったと考えていたこと、彼が他人に起ったと考えてもらいたかったこと、恐らくは、起ったと彼が考えたかったことを語っているにすぎない。選択の作用を開始したのは、サットンでもなく、ベルンハルトでもなく、シュトレーゼマンその人だったのだ。
歴史哲学という言葉を発明したのはヴォルテール
【メモ】========
そういや、シャイニングぜんぜん読んでねえな
ああ、そういえば、星々最新話で、キィ先輩のルビがちゃんと直ってた。流石や
*2:Boys, be ambitiousはウィリアム・スミス・クラーク
【個人用】4/15(日)を振り返る【14日目】
【個人用】を振り返る【日目】
【課題】
【やったこと】=========
【メモ】========
超テンション社長YES!
日曜だけど、今日の睡眠時間は6時間程度。寝すぎなかった。自分を褒めてあげたい。
そして残念なお知らせ。アヲイ先生がこのブログを読んで、いる。
嬉しがるところかもしれないけど、やっぱり基本的には思考を垂れ流しているわけだしねえ。他人から褒められるためじゃなくて、自分で自分をほめるために書いているようなものなのに、「みてるよー」とか言われても、その、困る……。*2特にこの【個人用】とサブタイに付けているものなんて、更新日数稼ぐためのものだから、『みられている』と意識してしまうとどうにも肩ひじ張っていけない気がする。というわけでそこのもっふる卿よ、我がブログを読むのは今すぐやめるのだ……
【やったこと】=========
金子兜太の俳句入門 少し
→自然と形式が出来たわけではなく、過去出来上がった歌をまとめる人がいて、そこから形式が出来上がっていった、と解釈した。ここらへん記紀の成立にも似ているのが興味深い。そういえば、ギリシャ神話成立の過程とギリシャ叙事詩の詩人の編纂にも通じるところがあるかも。まあ、多神教だしねえ。本来、その土地その土地で信仰されていた伝承の寄せ集めの結果なわけで、それが最高神の名のもとに一元化され、より大きな共同体になったのだから、案外、似るのはおかしくないことなのかもしれない。
→金子氏の言うように、俳句とは何か?という問いに答えることは難しい。なぜなら、俳句を支えていたはずの形式そのものが恣意的なものだから。季語があり、五七調なら俳句だ、と答えることは容易だが、それはジャンル内に収まった考えでしかない。伝統を守るのは大切だけど、表現を拡げよう、という意志することもまた大切。とまれ、まだ俳句をつくれないから、まずは基礎から!
→最初にこの本を手に取れたのは僥倖だったが、やっぱり入門書では無いと思う。基本のキの字も分かっていないところからいきなり禅問答されてもねえ。守破離は大切でしょう。形式にとらわれずやれ、ってことかもしれないけど…。少なくとも巻末にでも、造詣が深いひとに解説させるべきだったと思う。感情的に否定する論者ではなく、あくまでフラットに。
のれるに10、11話読んだ
→活き活きとしたキィ先輩素敵滅法
→そういや、もっふる卿が今日は異例の三話更新って言ってたけど、あと一つは活動報告含んでるのか? それとも、ぎりぎり前日だった「2017/12/22 PM4:00」を含んでいるのか…
はぐぷり観た
宝塚について
http://www.naruki-h.com/entry/2016/05/01/123037
https://bushoojapan.com/scandal/2017/10/30/105479
キーパーソン:小林一三
宝塚音楽歌劇学校
1910年代
国民劇
1974、ベルばら
1980、朝ドラ、虹を織る
→他に、花、月、星がある
華やかなメイク
男役と娘役
入団後、娘役から男役への転向例は極めてまれ
スターは、容姿・スター性(華やオーラ)・人気も重要な要素であり、実力者がトップになれるとは限らない。
【メモ】========
なんかもう、ここらへんの敷居意味がない気がしてきた。
読みたい本のために前倒しでエントリ書くとか、倒錯してんな、文字通り。
ひさびさにカロリー高いエントリ書いたから疲れた…
ほんとはこういうのを続けていかないと、いつまで経っても成長できないんだけど…
ま、今日は書いたからいいよね!
【面白いサイト見っけたー】「チェコ好きの日記」
面白いエントリ、というのはインターネット上にたくさんあるけども、面白いブログとなると見つけるのが難しいように思う。
はてなであれば、そのホームページを開いてみて、ランキングとか、おすすめ記事(ホットエントリ)から探せば見つけやすいのかもしれないけれど、僕は基本不精だし、気になることしか調べたいから、その時どれだけ良い検索ワードが閃くか、という偶然に頼ることになる。
で、ちょうど一か月前にたまたま見つけたブログはこちら。*1
面白さ:★★★★(4.0/5.0)
僕がこのブログを知ったきっかけは、書評やレビューの書き方について調べていた時、
というエントリを見かけたことだった。*2
『少年カフカ』から村上春樹*3を引いて、書評の書き方を説明しているので、詳しくは飛んで確認していただきたいのだけど、ざっくりまとめてしまうと、彼女が書評を書く際の基本方針は、「食欲をそそるようなもの」にすることで、次に大切なのが、「自分の書く書評のゴールはどこにあるのか」ということを意識すること。
そして、それを実践するポイントとして、
①あらすじは極力書かない
②自分の体験を交えて書く
③作品論より作家論
の三つを挙げている。
いくつかサイトを回った中で、学校の感想文でも書きそうな、お利口さんなレビュー法ばかりが目立つなか、これはなかなか新鮮に感じた。
それでまあ、いくつか気になるエントリを拾っていくうちに、
村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - チェコ好きの日記
この秀逸なエントリを見つけた。
村上春樹について好意的に、かつ、明晰に語られているというだけで僕はこのブログが、チェコ好きさんが好きになった。
ちなみに、ブログ「チェコ好きの日記」は、どうやら現在、毎週木曜日の午後十時あたりに更新される模様。夜中近いから「ティージーアイエーフ!」と叫びながら読めばきっと愉しめる。……いや、夜中だから大声はあかんよな。
他にも、このエントリ書くために読み返してる中で目に入ったものだと…
たとえばこれ。
うん、「おいしい書評」の実践例だ。
あの人こと、山本英夫氏について語っているエントリ。
同じ作者の漫画である『新のぞき屋』(1993年-1997年)と『ホムンクルス』(2003年-2011年)とを比較して、
本当に「見る」だけならのぞきでいいんだけど、その人間に直に触れるためには深層心理的な部分にタッチせざるを得なくなる。だから同じ「人間の真の姿」を扱っているといえど、「見る」だけだった『新のぞき屋』が『ホムンクルス』になって「触れる」ところまで進んだと考えると、山本さんの中でこのテーマが発展・熟成したことがわかって面白い。
と指摘しているのが鋭い。
「おいしい書評の書き方」*4から再び引用すると、
(…)作家って手を替え品を替え設定を替えながらも、結局どの本でも同じテーマについて追求していることが多いんですよね。
と言っていて、激しく僕も同意する。
実際、作家にとって切実(オブセッショナル)なテーマほど、繰り返される傾向にある。だからこそ、作品単体で観るよりも、並べて読んで、その輪郭をとらえた方が語りやすい、というのは本当に慧眼だと思う。
このエントリはちょっと泣きそうになった。それと、想像力の枠を少しでも広げようとするその意志が輝いてみえた。
阿片というと、やっぱり僕はコクトーの『阿片』が思い浮かぶ。
格調高い堀口大学訳。
……といいつつ、読みさしたまま積読の山に埋もれているんですけどね(笑)*5
さて、チェコ好きさんのエントリに話を戻すと、冒頭から凄い。
世の人の苦悩は、たいてい「欲望と現実のギャップ」から生まれる。
ここだけ引用するとアブない新宗教の教祖みたいなんだけど、すとんと腑に落ちた。
アドラーなんかは、悩みは対人関係にある、と喝破していたけど、僕はチェコ好きさんの言い回しの方が汎用性高いように思える。*6
しかもそれだけじゃない。苦悩をなくす――つまり欲望と現実のギャップを埋めるための手段のひとつを、
世に蔓延るたいていの商品は、「私があなたの現実を、欲望に追いつかせてあげましょう」とアピールする。
と表現している。
生きていくとすれば、消費社会から抜け出すことが出来ないのは仕方ないんだけど、やっぱ疲れるんだよねぇ……。
欲しくもないものを恩着せがましく「この商品どう!?」「欲しいでしょ!?」ってさ。必要は発明の母、というけれど、いまや生きていくために発明が優先されて、無理やり必要が生みだされている状態。消費される量などたかが知れているのに、狂ったように生産される食物、製品、サービス。売れば売ったで買わされる。搾り取られる。――パスカル風に言うのなら――ああ、なんて惨めなのか。
チェコ好きさんは語る。苦悩を解消する方法はもう一つあるよ、と。
消費することを、「現実を欲望に近付ける」とするなら、その逆、
欲望を現実に近付けること。欲望をダウンサイズすること。「モテたいのにモテない」から苦しいのであって、そもそもモテたいと思わなければモテなくても苦しくないのだ。これは詭弁なんかじゃない。
しかしこれは実は簡単なことじゃない。
欲望のダウンサイズを合法的にやるには精神の鍛錬が必要で、私ぜんっぜん詳しくないんだけど、たぶんガチでやるには仏教の世界とかに行くといいんだと思う。ただ、違法でいいから(良くねえよ)もっと簡単お手軽に欲望のダウンサイズがしたいよ〜! って人におすすめしたいのは、アヘン。真面目な話、アヘンの吸引と仏教の世界って繋がっていると私は思っていて、ていうかドラッグと宗教って全体的に繋がってるよね。
アヘンの効能がそういうものだとは知らなかったけど、確かに調べてみるとダウナー系のドラッグだから、ある種の悟りの境地、いわゆる賢者タイムに入れるのかも。
僕も似たようなことを時折考える。
恋愛感情だとか、幸福感とか、しょせん脳内での化学反応だよね。だったら、プロセス度外視するなら、ドラッグでいいじゃない、って。
僕は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が好きで、あれが実現したら本当にユートピアだよな、と考えている。まあ、実際にはあれを敷衍させた社会システムなんだけど。どのような仕事をしていようが、それ自体に全人類の一人ひとりが幸福感を覚えられるようなそういう社会。もちろん、あらゆるシステムにはエラーがつきものだから、そのような仕組みを作ったところで、そこから漏れ出る人が出てくる。仮に、一億分の一の確率で身体や精神に障碍が生まれてしまう可能性があるとすれば、それは倫理的に納得されるものじゃないだろう。一億分の一、つまり一億人に一人は生まれてしまうからだ。さらに仮定を重ねて、設計段階をクリアできたとしても、それを実現できるのはいつになるのか。少なくとも、いまじゃない。だとすれば、いまの僕にとっては価値のないものだ――とかそんな感じ。では、違法とか脱法とか、そのあたりのことを度外視して、自分一人、おクスリに耽溺した堕落ライフを満喫するとしたら――?
(…)モテなくてもいい。結婚なんてしなくていい。お金もなくていい。好きなことを仕事にしなくたっていい。ガンガン稼いでモテまくって雑誌やウェブメディアに取材なんかされなくてもいい。欲しいものもない。行きたい場所もない。食べたいものもない。ただこうして、横になって、ダラダラしながらアヘンを吸っているだけで、めっちゃ幸せ〜〜〜!
「そんなの、本当の幸せじゃないよ!」って言うことは簡単だ。ここまでプッシュしておきながらあれだけど、私だってアヘン吸って横になってるだけの廃人の日々が幸せだなんて本気で思っているわけじゃない。ただ、「なぜ?」に答えられないだけ。苦悩がないならいいじゃない。幸せだって本人が言うんだったらいいじゃない。どうして先行する欲望を現実が追いかけなきゃいけないの? どうして逆だといけないの?
一つ問題があるとするならば、いつかお金が尽きるってことだ。アヘンには中毒性がある。ハマればハマるほど、それなしでは苦しくて生きられなくなる。人を殺してでもそれを手に入れたいと思ってしまう。アヘンを買うためのお金がなくなってしまったとき、たぶん私たちは法を犯す。普通の社会生活はもう送れなくなってしまう。
そう、おクスリは高いのだ。それを法の目をかいくぐってバイヤーから上手い事買い付けることが出来たとしても、十分なおクスリを買い集めることはかなり難しい。金があることをほのめかせば、足元すくわれるだろうしね。無いなら無いで稼ぎつづけるしかないんだろうけど、クスリをキめつつ社会生活送れるくらいなら、最初からクスリなど必要ないと思う。
ただねえ…彼女の構想する「無限アヘン」の社会ってどうも抜けがあるように思う。映画『マトリックス』では、人類は、機械たちからエネルギー家畜として眠らされ電脳世界で暮らしてるけど、巨大ロボットものにおける人型兵器を造るくらいならその技術で別の兵器を造った方がずっと経済的だ、というのと同様に、しょせん空想だから走るシステムだと思う。
確かに人の幸福というのは快楽によって説明できる部分はある。それを継続的に与えることが出来るのならば、化学反応で幸福であり続けることは可能だ。ただ―――
それって生きる意味、あるんですかね? *7
薬物漬けで「あばばばばばきんもちいいいい!!!」ってなってるだけなら、それって死んだ方がマシなんじゃない?
ゲーテじゃないけど、最幸の瞬間で死ねるのとすれば、薬物漬けの人生よりもマシだと思う。死後にせよ、薬物漬けにせよ、忘我であることは同じなんだから。
だから、僕はあくまで欲望しながら生きていきたい。
その苦しみを引き受けてでも、生まれて良かったと実感したい。
消費を憎んで、欲望憎まず。
むしろ欲望の最涯へ――
などとポエムかましてみたけど、否定しているのは「無限アヘン」の社会であって、自分語りのダシにした元のエントリは十分示唆に富んでいたし、何よりアーカイヴとしての「チェコ好きの日記」というブログは非常に面白い。おすすめです!
*1:なぜ一か月前か。
その時途中まで書いて、放置したままだったからだ!
*2:書かれたメソッドを実践できていないのが悔しいところだけども、まあ、作家論じゃなくて作品論が書きたいからそこは仕方ない。
*3:厳密には、内田樹の『村上春樹にご用心』からの孫引きだそうだけど、チェコ好きさんが実際に所持していて、それを確認したんだからさして違いはないように思われる。
*4:それにしても良いタイトルだよなー。こういう本売ってそう
*5:周辺情報から推測するに、詩人のコクトーが阿片を吸って、それを、ただ欲望に埋もれるのではなく、医者のように、学者のように、自分の身体や精神に起こったことを書き綴ったもの、と僕は把握している。
*6:もちろん、広義に捉えるならば、現実=他者とすることで、アドラーの理論は適用できるんだけど、やっぱり、対人関係、という語に縛られちゃうからなぁ…
*7:人生の意義、価値、意味、というのは最初からあるものではなくて、人が生きながら自分で定義し続けていくものだと僕は考えている。
【個人用】4/14(土)を振り返る【13日目】
【個人用】を振り返る【日目】
【課題】
【やったこと】=========
【メモ】========
図書館に行った。
『星々』あらため、『のれるに』9話読んだ。
FGO第二部一章(十三、十四節)
ラジオ。ほめらじアーカイブ#567、568聞いた。
3/29配信の第567回では、荻さん、グアムのエピソードを語る風音さまのテンションがおかしくて何度もリピートした模様。風音さまもリピートしてらしたようで、聴き直していたときのセルフモノマネで「(小さく裏声で)テンション高いあたしw」と言っていたのが可愛かった。
パープルさんのサードライブは、ほとんど橋本みゆき歌姫のライブみたいなもの、という指摘がごもっともすぎた。
コラボバトルのコーナー。前回処女らじにゲストとして出張しに行った荻さん。前回、処女らじチームが勝負を終えて「めちゃくちゃ早くない!?」と盛り上がっている二人を見て、「風音やったぜ俺たち!俺たちサイコー!風音ちゃん見てる!?やったよ!!凄かったよ!!」と内心はしゃいでいた荻さんに不覚にも萌えた。
今回のバトルは金額当て選手権。小銭を落として、その合計金額を当てるというもの。カイジ並みの長考の末、予想は272円。
正解は予想に反して、957円だった。
そして、シロヨンハンマーさんが投稿したほめら神社の内容がタイムリーすぎた。
のびるちゃん「中吉。財布の中身を見ると、小銭で777円あるかも!(パチ屋に急げ!)」
荻さん「ざんねーん!957円でしたー!」
568回。
20分ごろ、バヤーシからのありがたいお言葉。
「二十代はがむしゃらに働く
三十代は信頼を築く
四十代は信用で仕事をする
今はがむしゃらに働いて、スキルを身につけていこう!」
荻さん、これにコメント。どこぞの社長が、新入社員に言いそうな言葉だけど、十年後二十年後、この意味がわかるようになる、と。
そして風音さまからのありがたいお言葉。
「力あるものには媚びろ!長いものに巻かれろ!」